2016年8月29日月曜日

戦略論から見た大学改革への対応 -順次戦略と累積戦略-


(以下は経営学の戦略論ではなく、軍事戦略論に依拠したものです。その手の話題がお嫌いな方はご注意ください)

昨年の国立大学人社系“廃止”通知問題、日本の“奨学金”が実は世界的には特異な「ローン」でしかないという情報がある程度社会的認知を得るようになってきたこと、大学ランキングの上昇を高等教育政策の目標として掲げているにもかかわらず、逆にランキングの低下が起こっていること等、“改革”が無条件に是とされるような風向きに若干の変化が起こり始めたようにも感じます。

これらに関しては、真っ当な研究者による真っ当な論考が色々と出ているので関心のある向きにはそれらを参照いただくとして、この稿はどちらかというと、伝統的な大学の自治や学問の自由といった観点よりも“現実”を重視し、“改革”の必要性を“現実的必要性”から疑わないといったスタンスに対して、多少「空気」も変わり始めたようだしということで、リアリズムの極致ともいうべき軍事戦略の観点からの疑問を示してみようというものです(そういう傾向の人たちが組合のブログなど見るものかと言われればその通りですが……)。

だいぶ以前の話になってしまいますが、今年の連休前の4月26日、朝日新聞に「『まるで詐欺』怒る選定校 『スーパーグローバル大学』構想」という記事が掲載されました。

内容は、例のスーパーグローバル大学構想について、実際の補助金が思っていたよりずっと少ない、事業名が日本語と英語で違っていて翻訳の時に面倒(?)、それに採択されるために計画を「盛って」、結果的に実現が困難な計画が採択されてしまい、今になって青ざめている大学があるなどで、ある程度事情に通じた大学関係者であれば「何を今さら」感の漂うものではありなした。

このうち、今回取り上げるのは「採択されること」を第1目的にした挙句、今頃になって現実の負担を計算して青ざめているというケースについてです。

第2次世界大戦で海軍軍人として対日戦に従軍、海軍大学校での勤務などを経ていくつかの著作を発表したJ.C.ワイリーという戦略家がいます。孫子やクラウゼヴィッツといった、軍事に関心のない人でも目にすることがあるようなビッグネームではありませんが、この人が1967年に発表した「Military Strategy:A General Theory of Power Control」(邦訳名:「戦略論の原点」)の中で、順次戦略(Sequential strategy)と累積戦略(Cumulative strategy)というユニークな概念が提示されています。



順次戦略(Sequential strategy)とは、例えば、太平洋戦争で日本海軍がミッドウェー島からハワイ諸島をめざし、アメリカ軍が有名なガダルカナル島等の南太平洋から中部太平洋、硫黄島、また、フィリピンから沖縄を経て日本本土を目指したように、特定の地域や海域を巡る一つ一つの作戦を「順番に段階を踏んで」重ねること勝利を目指すというものです。

それに対して累積戦略(Cumulative strategy)とは、太平洋戦争でいえば、アメリカの潜水艦による日本の通商路の破壊(商船、輸送船への攻撃)のように、小規模の行動、それもそれぞれの行動は「順番に段階を踏んで」行われるのではなく、バラバラの行動の結果が「累積」し、ある時点でその効果が明らかになるというものです。ボクシングのボディブローのようなものと言えるかもしれません。   

この順次戦略、累積戦略という概念を近年の日本の高等教育政策に対する個別大学の対応に援用してみると、先ほどのスーパーグローバル大学構想や21世紀COE、特色GP、現代GP等のいわゆる競争的事業の獲得を目指す行動は、個別の事業を次々と獲得して大学間競争での生き残りなり優越なりを目指す「順次戦略」的なものと見做すこともできます。

では、累積戦略はというと、例えば教育で言えば、質の向上のための地道な取組み -学生/教員比の改善による少人数教育の増加や教員の負担駒数の削減、TAの増員、FDの充実等―、 特定の事業に依拠しない積み重ねによる社会的評価の向上を目指す行動などが当てはまるでしょう。

そして、ここからはワイリーのオリジナルの概念には出てこない、筆者の勝手な観点になりますが、戦争資源が一定の限られたものであるとすれば、多くの国にとって順次戦略、累積戦略はその双方を無限定に追求できるものではなく、基本的にトレードオフの関係で、どちらにどの程度の資源を割くかを考慮しなければならないものという事になります。

ワイリーの母国であるアメリカの第2次大戦時における国力は圧倒的なものであり、太平洋で順次戦略と累積戦略の双方を全面的に展開し、更には大西洋・ヨーロッパにおいても順次戦略と同時に、ドイツの通商破壊という累積戦略に対するカウンター累積戦略とでもいうべき活動を大規模に展開しています。それに対して、日本の場合、累積戦略は(そもそもそのような戦略思想自体ほとんど持っていなかったというのもありますが)ほとんど行わず、アメリカの累積戦略に対する対応も(資源を持たない海洋国家としては死活的な問題であったにも関わらず)非常に貧弱なものでした。海軍に関する限り、「艦隊決戦」と呼ばれる、ただ一度の決戦で戦争の帰趨が決する、ある意味、順次戦略の極端に純化した状況しか想定していませんでした。ドイツの場合も、海洋に関しては累積戦略に特化し、連合国側でアメリカに次ぐ国力を持つソ連も陸上における順次戦略にその資源のほぼ総てを投入しています。2つの戦略を同時に全面的に展開することができるだけの国力を持っていたのは、全参戦国の中でアメリカだけであり、他の国家群は限定された国力を優先順位に基づいて不均等に配分して戦争を戦ったのです。

その様な観点から言えば、現代GP等、事業が乱立し採択件数も多かった時期に一つでも多く採択されようと手当たり次第に申請した大学にしても、最近の前提条件や審査基準が大学全体を詳細かつ長期にわたって拘束するような事業に「ここが勝負」とばかりに「盛った」申請を全学的な精査、調整もなく申請した大学にしても、自大学が順次戦略と累積戦略の双方を同時に無限定に追求できるほどの資源を持っているのかを正確に認識していたのか、十分な資源を持たないのであれば総ての選択はトレードオフの側面を持つことになるのだということを十分に理解していたのか、疑問を感じます。少なくとも朝日新聞の記事に紹介された採択“されてしまって”青ざめている大学は、そうではない可能性が高そうです(ちなみにワイリー自身は、順次戦略と適切な累積戦略をバランスよく組み合わせることにより最小のコストで最大の効果を得ることができる可能性を示唆しています)。

また、気になるのは、日本の多くの大学が競争的事業のような、単発、一時的な様々な事業に手当たり次第に食いつき経営資源を消耗(=順次戦略、それも不適切な順次戦略への傾注)し、先に記した地道な教育改善のような累積戦略的な取り組みにあたる資源をむしろ減らしてしまっている(=累積戦略の欠如ないし不足)可能性があるという点です。研究に関しても、基盤的研究費を削減し、競争的研究費を取らないと研究がおぼつかないような状況を政策的に作り出し、結果的にそのための事務作業の増加や、中長期的な研究への取り組みを困難なものとしている、という指摘は多く出ていますし、政府の高等教育政策上の最優先目標であるはずの大学ランキングが振るわないのは、そのあたりに原因があるのではないかと疑わせるデータ、分析も出始めています。

http://www.janu.jp/report/files/2014-seisakukenkyujo-uneihi-all.pdf

http://hdl.handle.net/11035/3027

この状況は、太平洋戦争時に、北はアラスカ近くのアリューシャン列島、東はギルバート・マーシャル諸島、南はオーストラリアに隣接するニューギニアやソロモン諸島、西はインド国境までと「行けるところまで手当たり次第に」進み、戦力を分散、空洞化させた歴史によく似ています。

自分たちが始めた太平洋戦争であるはずなのに、戦争に必要な東南アジアの資源地帯の占領以降の戦略、戦争計画は不明確なままだったというのは有名な話ですが、これだけ「戦略」という言葉があふれかえっている現在においても、実は戦略レベルの発想が苦手であるという不思議な傾向は変わっていないようです。

そろそろ、「これだけ皆が右往左往するなら我々は一切動かず、地道な教育や研究の取り組みだけに専念する」と逆張りを宣言する大学が出てきても良いのではと思うのですが。


(菊池 芳明)

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