2023年11月16日木曜日

大学設置基準改正 ― 教育研究実施組織、今後の影響 ―(後編)& 国立大学法人法改正案

 この稿の前編を書いてから何と1年も経ってしまいました。 

 前回は、教育研究実施組織について、

  1. わざわざ改正を行い「教員組織」を事務職員を必置とする「教育研究実施組織」へと入れ替えたにも関わらず、改正と同時に発出した通知で「従前の教員組織等が果たしてきた役割や必要性は変わらず、教員や事務職員等の役割や連携等について、学内の規程等に明記すること等により、引き続き担保されることが求められる」「必ずしも今回新たに規定した『教育研究実施組織』に対応する新たな組織を設けたり、新たに人員を配置したりすることを求めるものではない」(大学設置基準等の一部を改正する省令等の公布について(通知))とするのは辻褄が合わない
  2. その裏面には、産業界の「現在35%の自然科学系専攻学生割合をOECD諸国最高の50%程度に」という要求への対応が優先され、そのために大学設置基準の改正スケジュールが本来の予定より大幅に前倒しされたという事情があるのではないか という推測を書きました。

 それから1年が経過し、状況は大きく動きだそうとしているように見えます。

 まず、前回も書いた「自然科学系専攻学生割合をOECD諸国最高の50%程度に」を実現するための取り組みとして「大学・高専機能強化支援事業」が昨年度、早々に現実化、国公私立高等教育機関118件が採択されました。この事業においては、(おそらくは拙速な設置基準改正を反映して)今のところ既存大学の既存組織については無期限な経過措置が認められているはずの「基幹教員制度」に関し、事業の公式の公募要領等では全く触れられていないものの、事業のQ&Aの内容が全て「基幹教員制度」への変更を前提とした記述であり、https://www.niad.ac.jp/josei/media-download/6493/c4f265ca051fef16/ 事実上、応募校を「基幹教員制度」へと誘導するものとなっています。

 次に、「2040年」までを射程としていたはずの「グランドデザイン答申」(実際には現状で一つの政策文書がそんな長期間、指針として有効であり続けるわけはないのですが)策定からわずか5年で新たな答申の検討が開始されることになりました。 https://www.mext.go.jp/content/20231025-koutou02-000032518-5.pdf とはいうものの、並べられている検討を必要とする理由はグランドデザイン答申、さらにはそれ以前の諸々と基本線において大きな違いは感じられません。おそらくそれらの中で“本当の理由”は諮問タイトル通りの「急速な少子化」、すなわちグランドデザイン策定作業中の想定を上回る少子高齢化、日本人の18歳人口減なのだろうと思われます。グランドデザイン答申策定時の2040年の18歳人口予測値が881,782人。そして今回の諮問直前の大学分科会(第174回)の資料では823,382人で6万人近く減少しています。さらに2040年に18歳となる2022年の実際の出生者数は(コロナの影響があるにせよ)770,747人です。付け加えるなら8月29日に公表された厚労省の人口動態統計速報では、今年上半期の外国人を含む出生者数は371,052人となっており、仮に下半期も同様の傾向が続くとすると約74万人、つまり2041年の18歳人口は80万人を大きく下回ることになります。

 そして今回、卓越研究大学だけに適用されるはずだったはずの「合議体」が突然「運営方針会議」という名称で卓越研究大学以外の複数の国立大学にも適用されるとともに、それ以外の国立大学でも「自主的に」選択可能であるとする国立大学法人法改正案が上程されました。 https://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/mext_00013.html

 全てを論じるのは手に余る&紙幅も、ということで、以下、3点ほど感想です。

1.ガバナンス改革の突出

 上記のうち、設置基準改正時においてほとんど議論されないままに変更された部分、そして今回、中教審大学分科会においては全く話題にも上らないままに行われようとしている国立大学法人法改正(もともとの予定であった卓越研究大学に限定した改正に関しては、以前、説明はあったと思いますが)については、いわゆるガバナンス改革に連なるものです。法人化(2004年)、ガバナンス改革審議まとめ(2013年)に続いて、三度、ガバナンス改革の季節が訪れようとしているのかもしれません。そして、それは「社会的ニーズ」へのより敏感な反応を求めるという通奏低音のもと、当初の学長等の経営陣によるトップダウンの強化という間接コントロールから、「社会的ニーズを代表する外部者」が直接大学に「運営方針会議」の構成員として入り、大学をコントロールするという、ダイレクト・コントロールを志向するものへと変貌しようとしているようにも見えます。  

 また、設置基準改正と今回の国立大学法人法改正の両者に共通する特徴の一つとして、大学側の意見等をほとんど聞かないで改正を行なおうとしているという点が挙げられます。設置基準改正については、前述の通り、教育に関する部分については、質保証システム部会で1年半以上に渡る審議が行われ、その過程で大学団体に対するヒアリングも行われているのに対し、教育研究実施組織等のガバナンス改革に係る部分については大学分科会における3回の審議(実質的な審議は2回であり、しかも他の議題と併せての一部の時間を割いての検討)のうち主たる話題となったのは1回で、大学団体等の見解が求められることも無く、委員による数十分の事務局への質問と意見で終了となっています。

 そして、今回の国立大学法人法改正については、大学分科会の議題に上ることもなく、その他の公式、公開の場で大学団体や国立大学に意見が求められたといった話も聞きません(国大協に対する“説明”は行われたようですが)。

 これが何か特別の意図や理由に基づくものなのか、それともこの20年余りのガバナンス改革の果て、「地均し」が済んで、もはや法令で最低限求められる手続き以上のことをする必要はないというレベルに至ったためなのかは分かりませんが、自由主義国家であり民主主義国家であるはずの国で、自治と民主主義的プロセスがこれほどまでに軽んじられることには、いささかの危惧を覚えます。5,6年ほど前でしたか、国際政治に関する世界で最も権威あるジャーナルとされる Foreign Affairs を20数年ぶりに眺めてみたところ、多くの掲載論文で日本が純粋な民主主義国家ではなく「権威主義的民主主義国家」(シンガポールや東欧諸国と同じ枠)に分類されていたことに「昔は疑問の余地なく自由主義国家に分類されていたのになあ」(共産圏崩壊までの世界の分類枠組みは自由主義国家、共産主義国家、第3世界、でした)と隔世の感を覚えたものですが……。

 関連して一つの推測を記しておきます。前回、設置基準改正について、改正により「教員組織」を事務職員を必須とする「教育研究実施組織」に置き換えたことと、学部教授会の重要性は変わらない、教育研究実施「組織」を組織として設置する必要はないという局長通知は辻褄が合わないこと、その背景には「理系学部生50%」の実現のための施策の即時着手のため直ちに設置基準を改正せよという官邸の圧力があったのではという推測を記しました。では、仮に文科省の当初予定通りのスケジュールで改正作業が行われた場合、何が起こっていたでしょうか。あり得ることの一つは、設置基準の条文通り、「教員組織」すなわち学部教授会は「教育研究実施組織」に取って代わられるという事態です。

 その場合、「教授会」はどうなるのかという問題が浮上します。以前、この点について、学校教育法の教授会規定の「その他の職員」を教育職員、つまり教員だけに限定せず事務職員等を含むすべての職員へと解釈を変更してしまえば問題はなくなる、といういささかアクロバティックなロジックを示してみました。 https://ycu-union.blogspot.com/2022/08/blog-post.html 実はもう一つ、この問題をクリアする方法があります。つまり、学校教育法も改正し教授会を教育研究実施組織へと変えてしまうというものです。こちらの方がやり方としては普通であり、今回の国立大学法人法改正の成り行きを見ると、実は本来のスケジュールではそちらも射程に入っていたのでは、という推測も一定の蓋然性を持つように思われます。国立大学法人法の改正後は、さらに学校教育法改正という次の幕が待っているのかも知れません。

2.トップダウン型ガバナンスと大学(教員)自治打破への情念のよって来るところ

 トップダウン型ガバナンスと大学(教員)自治の打破への強い志向はこの20年余り、一貫して続いているものです。その圧力の由来は一応、急速に変化する時代の中、「社会的ニーズ」に対応するため、「内向きで合意を重視し、経営視点がない」教授会からトップの権限を強化し云々といったストーリーで説明されることが多いのですが、この20年ないし30年の「改革」の「成果」、あるいはトップダウン型ガバナンスの「手本」とされた日本企業の凋落にもかかわらず執拗に強化、追及されるさらなるトップダウン型ガバナンスと大学(教員)自治打破は、それが単なる手段以上のものであること、その背後に信仰あるいは情念とも呼ぶべきものが存在するのでは、と感じさせます。

 よくある解釈の一つは、かつて日本の高度成長期から自民党単独政権の崩壊、1993年まで継続した「55年体制」下において自民党傍流右派の中に存在し続けた、日中戦争、太平洋戦争期の価値観の一部に対する親近感や肯定的態度、それが21世紀に入り主流派と化したことで、日中戦争、太平洋戦争期の価値観と異なるあり方を濃厚に持つ大学に矛先が及んだ、という解釈です。右傾化、バックラッシュといった言葉はこれに繋がるものでしょう。

 もう一つ、この問題については、野口悠紀雄氏の「1940年体制論」の観点に立つともう少し違った光景が見えてくると個人的には考えています。以下、「1940年体制(増補版)」(2010年) https://str.toyokeizai.net/books/9784492395462/ に基づいて紹介していきます。

 「1940年体制論」は、戦後日本の根底となる在り方を「富国強兵から強兵が落ちただけで」「継続された戦時総力戦体制」として認識するもので、その起点を総力戦体制のための各種の大きな制度変更がなされた1940年前後に求め、それが実はそれ以前の日本の在り方からは断絶したものである、という意も込めて「1940年体制」と呼ぶものです。

 氏の分析は、日本型企業、金融システム、(経済官僚を中心とする)官僚などに焦点を当てるもので、大学、文部官僚、自民党文教族議員、最近では官邸と内閣官僚といった「大学改革」に関連するアクターは直接には登場しません。また、最初の版が1995年、増補版が2010年の出版で、政治家と官僚の関係については、1995年までを対象に、55年体制の崩壊は(政権の座に着くと官僚の言いなりになるという意味で)総与党化、つまり体制翼賛会の復活、1940年体制へと逆行した、としています。これは21世紀の、官邸が幹部官僚の人事権を掌握し、官僚が官邸に従属する存在となった現在ではそのまま受け入れることは難しいものですが、そういった限界ははらみつつも、近年の大学改革のトップダウン、そして大学(教員)自治の打破への強い志向について、いくつかの視座を提供してくれるものです。

 第1に、「1940年体制論」は、戦後日本の根底に「戦時総動員体制の継続」があったとしていますが、それが全てではなく戦中と断絶した部分も少なからずあったと認めています。その意味では、教育、特に「学問の自由」が憲法に明記され、人文社会科学領域における学説の多くも戦前、戦中とは大きく変わった高等教育の世界は、まさに「戦時総動員体制が継続しなかった」領域にあたるでしょう。

 第2に、「戦時総動員体制の継続」の在り様がどのようなものであったか、という点です。具体的な記述について、いくつか紹介してみます。

「1940年体制は、国民全体が一丸となって生産力を増強するためのものであった。」
「この体制は、単一の目的のために国民が協働することを目的としている。」
「再び全国民が一丸となった総力戦を戦わざるを得なくなった」
「40年体制は、明確な目的に対して全国民を総動員するという『戦時体制』であった」

 これらに共通するのは、「一丸となって」「単一の目的」「全国民を総動員」、つまり、多様性とは対照的な単一性に基づく、逸脱、異論を許さない社会観です。そしてそれを是とする観点からすれば、戦後、「総動員体制」から断絶し、「学問の自由」「大学自治」の名のもとに多様性を享受する大学は、放置できない異分子と映ってもおかしくありません。

 第3に、この総力戦体制は高度成長だけではなく、2度のオイルショックの克服を通じて日本の経済大国化を決定的なものとしたとされます。あの時代、いまとなっては多くの国民にとって「栄光の時代」と捉えるしかなくなった時代を一定以上の年齢で経験した中高年-政治家、官僚だけでなく一般国民も-にとって、全国民が一丸となって単一の目的に邁進するという総力戦体制は、敗戦の記憶ではなく、成功体験と結びついた、成功の原動力そのものと認識されているかもしれません。そうであれば、日本経済の復活のために、大学も政府、財界の示す方針に従い「国民の一部として一丸となり、隊列に加わり奉仕せよ」というのは、一部の政治家や官僚、財界人の主張というだけではなく、(少なくとも一部の)国民の支持するところである可能性があります。

 上記を要約すると、戦後も継続された「総力戦体制」は経済発展の原動力となり、その具体的な在り方、「全国民が一丸となって単一の目的のために邁進する」は、軍事的敗北ではなく経済的栄光の原動力として(一部政治家、官僚、財界人だけでなく)国民に記憶されている可能性があり、その観点からすれば、「総力戦体制」から断絶し、「学問の自由」「大学自治」の名のもとに多様性を享受する大学は、経済的復活のために「全国民が一丸となって単一の目的のために邁進する」に背を向ける身勝手な存在である、と(どこまで自覚的かはともかく)認識されている可能性がある、ということです。

 もちろん、このような「総力戦体制」の強化、あるいは復活が経済的復興の鍵である、という信念は、現在では全くの誤りです。この点は野口氏、そして、「メンバーシップ型」との関係で紹介、引用してきた経営学者の太田肇氏も指摘するように、「20世紀の、工業分野における大量生産によるキャッチアップ」には適していても、21世紀の分散情報システムの上に展開される自由な発想や独創性が鍵となる高度情報化社会にはおいては逆に発展の阻害要因となるからです。日本経済の衰退が高度情報社会の本格的な展開が始まった1990年代にはっきりと表れたのは偶然ではないでしょう。

3.その制度、システムが機能するために必要な人材は存在しているのか  

 何回か紹介した科研費による事務職員の研究 http://aue-web.jp/nenpo/nenpo19.pdf https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-21K02665/ では、日本の事務職員、つまり「メンバーシップ型」という独特の能力観、仕事観を持つ人材は、一般的な意味での「プロフェッショナル」とは異質な存在であり、それをそのままで「大学経営」の(近年のガバナンス改革の文脈では、「教員に代わる」)受け皿としても機能するのかという点を指摘してきました。これらのガバナンスの(実際とはいささか異なるいびつな形で理解されてしまった)モデルとなったらしい米の大学の在り様は、経営者、そして100種類を超えるらしい各種の専門職が「プロフェッショナル」であることを前提に機能しています。そして「プロフェッショナルとは何か」については最大公約数的な要件が存在しており、「プロフェッショナルである」と名付ければ、あるいは名乗ればプロフェッショナルだということになるわけではありません。

 同様の問題は、今回の国立大学法人法改正にも存在しています。「運営方針会議」を最高意思決定機関とするとして、(CSTIの卓越研究大学検討時の最終まとめに従えば)過半数を占めることになる外部識者 - おそらくは財界人、官僚など、場合によっては政治家も? - は大学経営のプロフェッショナルでしょうか?米の大学経営者と比べれば一目瞭然で、否です。それどころか日本企業にはそもそも「プロフェッショナル経営者」がほとんど存在しません。これも「1940年体制(増補版)」から引用してみましょう。

「大企業の幹部は、経営の専門家でなく、その組織の内部事情(とりわけ人間関係)の専門家」

 この、器を作って器を満たすものについては問わない、という傾向もなぜか既視感があるのですが、いい加減長くなってきたのでこのあたりにしようと思います。

(菊池 芳明)
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