2021年12月27日月曜日

日大事件と学校法人ガバナンス改革会議報告書 -リアリズムの欠如という病-

 日本大学前理事長とその側近とされる理事による一連の事件は逮捕、法人役員の地位の喪失などにより過去、彼らに絡んだ疑惑の浮上時とは異なる道を辿ろうとしているようです。これだけで日大が高等教育機関としてまともな方向へと変われるのかは、前理事長が理事長就任以前から長年にわたって法人内に扶植して来たであろう勢力の巨大さを考えると楽観はできないでしょうが、それでも1つの幕引きとはなるのでしょう。

 この日大事件と並行するように私学のガバナンスを巡る、これまでとは毛色の異なる新たな“改革”の検討が進んでおり、その最終的な結論が「学校法人ガバナンスの抜本的改革と強化の具体策」として12月3日に取りまとめ、公表されています。

 「毛色の異なる」としたのは、今回の“改革案”がこの20年ほどの“大学改革”の歴史 ― 文科省主導から財務省の意向が強く反映された時期、そして第2次安倍政権成立以降長く続いた官邸を主たる舞台とした与党政治家、産業界、経産省系官僚などの意向により決定される時期 ― とは異なる勢力により主導され、政策的にも連続よりも断絶の色彩が強いからです。具体的には、各種報道によれば今回の検討は10月の衆院選には出馬せず議員としては引退することになった厚労族有力議員の強いイニシアティブによるもの、ということのようです。なぜ厚労族が?と疑問に思ったのですが、当該議員は単なる厚労族というよりは企業への社外取締役導入にも大きな役割を果たし公益法人改革を主導した、「ガバナンス改革」に強い関心を持つ政策志向の強い政治家で、その人物がコーポレートガバナンス、公益法人ガバナンスと手掛けた末に、いわば議員としての最後の仕事として選んだのが学校法人ガバナンスだったということのようです。

 このような経緯を反映して、今回の案はこれまでの「トップダウンの強化」という全体的な方向性、私立大学に関するものとしては2004年私立学校法改正等による理事長、理事会の権限強化、評議員会の原則諮問機関化といった方向性から一転して、外部者のみからなる評議員会に理事等の人事権、予算・決算、中期計画、事業計画等に関する排他的決定権を与え(「評議員会を最高監督・議決機関とする」)、学内者中心の理事会は評議員会の決定を実行する執行機関へと変更するというもので、「学校法人ガバナンスの抜本的改革と強化の具体策」に明記されているように、変更された公益法人制度、特に社会福祉法人制度に倣ったものです。

 このような“改革”を行わなければならない理由として、冒頭で理事長や理事による不祥事が相次いでいることが真っ先に挙げられており、このうち「理事が背任容疑で逮捕されたりする例」とあるのは時期的にみても恐らく日大の前理事長側近とされる理事の逮捕(10月7日)のことと思われます。また、件の厚労族議員もインタビューで「現行法のままでは、どの大学でも『第二、第三の田中理事長』を容易に許すことになりかねません。」と日大事件をガバナンス改革の必要性の根拠として挙げています。

 さて、以下、これらについて思うところを記していきます。

1.「現行学校法人ガバナンス制度の問題点」の根拠として日大事件は不適切ではないか

 前理事長逮捕以後、堰を切ったように大手メディアで前理事長の来歴や学内権力掌握の過程に関する情報が流れるようになりました。それら報道によれば前理事長の日大関係者としての第1歩は日大紛争、あるいは日大闘争と呼ばれる学生運動とその鎮圧の過程(1968年,1969年)での経営側の「文字通りの」物理的暴力行使を担った体育会系学生等の集団のリーダーとしてであり、その後は、もともと体育会が学内に影響力を持っていたという日大の特殊な環境のもと、暴力団関係者との付き合いを公言、学内関係者を威圧、意に沿わない経営幹部や職員に懲罰人事を行うなどして法人、学内の主要な地位を自身に忠誠を誓う人物で固め、独裁的権力を確立したと伝えられています。

 これらの報道、そして3年前のタックル事件以降の、自らは全く表に出ずにひたすら時間の経過による“風化”を待つかのような振る舞いから浮かぶのは、権力や金自体への執着とそのためには文字通りの手段を選ばない価値観、そして学術、教育研究、公的な倫理や責任への無関心といった特徴を持つ特異な人物像です。大学という組織と結びついたのが不思議なくらいで、日大に相撲部というものが存在しなければ彼が日大と接点を持つことも無かったのではないでしょうか。

 また、今となってはその報道に少なからざる事実が含まれていたのだろうと考えざるを得ない、ずっと以前から前理事長やその周囲の問題点を報じていたFACTAと敬天(報道の結果、前者はスラップ訴訟、後者は直接的に社員が襲撃を受けました)の情報も加えれば、前理事長の権力掌握と維持には、法人・大学外部の、暴力団との関係に加えて、政治家、検察OB等からなる弁護団、法務・警察関係者などの存在も与っていると指摘されていて、これまた普通の大学であれば出てこないであろう単語のオンパレードです。

 この問題は、本来、2005年に当時の瀬在総長が田中常務理事(当時)の経営者としての行動に不審を抱き(業者との金銭授受や裏社会との交際)調査を行った前後に総長や他の常務理事に拳銃の実弾や脅迫状が送られてきた、という時点で警察・司法が介入すべき性質の問題だったのだろうと思います。大学だろうと民間企業だろうと、こういった人物にひとたび権力を掌握され、外部に訴えても無駄だと暗黙の裡に示され、組織内にも組織のミッションや一般的な道徳、遵法精神よりトップへの忠誠を優先させる人間がある程度の数になった時点で、それはもう一般的なガバナンス云々の次元の問題ではありません。刑事、民事の事件として処理されるべき性格の問題でしょう。
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b2029
https://facta.co.jp/article/201808015.html
https://president.jp/articles/-/25325?page=1
https://news.nifty.com/article/item/neta/12113-1358357/
https://news.yahoo.co.jp/articles/8b0243d0dbe672d0c83bc64034f32bae05e1525b
https://news.yahoo.co.jp/articles/72f95eb8cb1db17640997fc4f5d83a434188ee54
https://president.jp/articles/-/52690?page=1

2.「外部者のみから成る組織」に経営者人事、予算・決算、計画等の排他的決定権を与えればグッド・ガバナンスが実現するという根拠は?

 日大事件にページを割きすぎました。以下、できるだけ要点だけにします。

 上述のように、日大前理事長の権力掌握と維持には、当人の尋常でない権力・金銭欲と大学人として以前の一般的な意味でのモラルの欠如、体育会がもともと学内で力を持っていたらしい日大の特異性に加え、暴力団、政治家、検察OB等の「外部者」の存在が与っている、と報じられています。「外部者のみから成る組織」に経営者人事、予算・決算、計画等の排他的決定権を与えればグッド・ガバナンスが実現するという根拠は何でしょう?

3.トップダウン型ガバナンスの成否はトップの資質、能力に依存する、はずだが…

 「『トップダウンの強化』という全体的な方向性」、とこれまでのガバナンス面での“大学改革”の特徴について表現しました。その意味では、「外部者」のみの評議員でも学内の理事長、学長、理事でも同じ話ではあるのですが、ごく当たり前の問題としてトップダウン型の意思決定の成否はトップの資質、能力に大きく依存します。

 大学に限っても、法人化以降、「トップガバナンス」があれほど強調されているにも関わらず、欧米、ことに米大学のトップと比較した場合、あちらの学長やプロボストがプロフェッショナル経営者化しているのに対して日本の場合はそうではありません。民間企業に関しても「プロフェッショナル経営者」と呼ばれる存在はごく限られており、その中には「焼き畑農業専門」と陰で呼ばれるような人まで含まれています。「トップが強い命令を発し、それに無条件に従うこと」が「トップダウン型ガバナンス」だと思い込んでいるのではと思われるようなケースもあります。

 トップダウン型の組織という器を、その根幹を満たす経営プロフェッショナルの存在を考慮せずに設計、実装してしまうのはいったいなぜなのでしょう。官民とも「メンバーシップ型」が組織の中心を占めてきた、という事情も無縁ではないでしょうが。

4.その他

 「学校法人ガバナンスの抜本的改革と強化の具体策」そのものに関する全体的、包括的な疑問点、問題点については、いい加減長くなったので書くのはやめます。探せばネット上でも色々出てきますので、そちらを参照ください。ただ、最も問題と思われる点について記しておくなら、評議員について、どういう資質・能力を持っていることが必要かという資格要件に触れられていない(「外部者であること」以上は書かれていない)のと、その評議員によって構成される「最高監督・議決機関」である評議員会自体が暴走や不適切な決定を行う危険についてどうするかは書いていない、という点でしょう。

 「学外者」が、日本の高等教育について「個人的経験の一般化や何十年も前から現在に至るまでも流通している間違いだらけの言説、情報の影響」を免れ、正確な知識、見識を持って「最高監督・議決機関」の一員としての業務を担いうるかは、21世紀に入って以降の産業界、政治家などの“大学改革”についての言説を見る限り楽観はできそうもありませんし(他大学の関係者が評議員たりえるかは現段階では確たることは言えないのと、仮に認められても「大学関係者同士の馴れ合い」と非難されることも懸念されます)、一つの組織の暴走を防ぐために他の組織に全権を与える、というのは、ではその組織が暴走したら?とキリがありません。完全な「学外者」だけの組織がどこまで真剣にその大学のことを考え、責任を負おうとするかも疑問です。その他、仕掛けた当事者が「最高監督・議決機関」と明記してある評議員会について、「ガバナンス構造において、最高、といった概念は存在しません。」と言っているのも不可解です。

 私学関係者等も入れて再検討が行われることになりそうですが、この件に限らず、そろそろ時間をかけて「実際上手くいくのか」を真剣に検討して政策立案を行うべきではないでしょうか。

(菊池 芳明)
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